鳥取市用瀬町に位置する景石城は千代川右岸、用瀬集落東側、標高325m地点に所在する。景石城が歴史上に登場するのは、延文元年(1356年)、播磨の国、赤松氏に攻め滅ばされたと太平記に記されている(いつ、誰が築城したか不明)。戦国期後半時代、鳥取山名氏の重臣・用瀬氏が統治していたが、秀吉の鳥取城攻めで秀吉軍に攻め落とされ、秀吉の家臣である磯部氏が3000石で城主となり城郭および城下の整備を行う。
大規模な竪堀(幅6m・長さ46m)
堀切跡(幅6m・深さ約2m)
土橋(両側が切り立った崖になっている)
搦め手口の石垣
城山頂上を中心に高石垣を構築し、そこから3方に延びる尾根伝いに小曲輪を配置した縄張りである。主要部分の石垣はこの時期(天正期前半、天正8~9年)の普請とおもわれる。石垣は4m前後と比較的低く、隅角部の石垣も算木積になっていない。
隅角部の石垣
大手登城路より本丸を見上げる
磯部氏は1600年、慶長5年、関ヶ原の戦で「西軍」に所属し敗戦、領地を没収、若桜鬼ヶ城城主・山崎氏の持ち城(支城)になる。景石の石垣は破城されているが、時期は元和の一国一城令以降の池田光政段階と思われる。